文字サイズ: 標準

世界の宗教

コスモロジーと出会うよろこび【編集部から】

本連載エッセイでは、人類共通の記憶の宝庫ともいうべきコスモロジー(=世界観・宇宙観)の豊かさを武澤秀一先生が探究します。
建築家である先生は、ご著書『空海 塔のコスモロジー』『マンダラの謎を解く』『神社霊場ルーツをめぐる』に見られるように、3次元の存在である建築を歴史・宗教・文化の位相のなかに捉え、塔やマンダラや神社霊場が聖なる力を帯びていく様相を明らかにされてきました。そして今年3月に刊行された新著『伊勢神宮の謎を解く』は、とくに日本の特性を浮かび上がらせていて注目されます。本連載エッセイにあわせて、ぜひごらんください。これからの連載でも、日本列島において育まれてきたわたしたちのこころの特性に、さまざまな場面で気づかせてくれることでしょう。
さあ、コスモロジーに出会う旅に出発することにいたしましょう。わたしたちが無意識の底に置き去りにしてきた大切なものに、今、再び出会うために——。

建築家 武澤秀一の連載エッセイ 時空を超えて コスモロジーと出会う

 

第12回 ハスのコスモロジー(中・その1)

前回は神話や経典に見られるハスのコスモロジーを探索しました。今回からはアプローチを変え、ハスのコスモロジーが現実の空間や立体において実際に、どのように表現されているかを探索したいと思います。

探訪するのは、中国の雲岡(うんこう)石窟と龍門(りゅうもん)石窟、韓国の石窟庵、そして東大寺の大仏です。これらはいずれもハスのコスモロジーを個性あふれるやり方で具体化しています。それぞれの特徴を見るとともに、相互に比較対照し、ひとくちにハスのコスモロジーといっても多様であることを実感したいと思います。

 

 

1


〈コスモロジーを体現する場〉

この現実世界の中にコスモロジーを体現する場をつくるのは、矛盾した行為といえます。なぜなら、コスモロジーを体現する場とは、この世界全体の成り立ち、そのエッセンスを体現する小宇宙であるわけですが同時に、それ自体、現実世界を構成する一部であるからです。

現実世界の一画に、世界全体の成り立ちを具現するという、いわば次元の異なる場をつくるには、相応の工夫がもとめられます。

サーンチーのストゥーパは外界に開かれていますが、それは丘の頂上に開かれた聖地であり、特別の場所でした(第2回)。周囲にひろがる空間とは異質です。

ローマのパンテオンは都市の広場に面しますが、途方もなく厚い壁に包まれ、開口はといえば、正面入口の他にはドーム天井の頂点に円い穴があるだけの、閉ざされた空間でした(第2・3回)。往時、パンテオンの主要部をなす円筒部の外周には建物が密集し、この部分は人目に触れることはありませんでした。

コスモロジーを体現するには、周囲の空間と切り離された、閉ざされた空間が有利といえます。アジャンター(第5回)やエローラ(第6回)で見たように、大地に穿たれた石窟はまさに打ってつけなのでした。

 

〈雲岡と龍門〉

ハスのコスモロジーを見事に体現する石窟空間として、中国は雲岡と龍門の石窟をあげることができます。ともに世界遺産に登録されており、また敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)とならんで中国三大石窟にも数えられています(雲岡石窟と龍門石窟の詳細については拙著『空海 塔のコスモロジー』『マンダラの謎を解く』を参照してください)。

雲岡石窟は、山西省(さんせいしょう)第二の都市である大同(だいどう)の市街地から15キロほど西の郊外にあります。かつて、大同は平城(へいじょう)と呼ばれ、北魏(ほくぎ)の都として栄えました。

大同は北京から特急列車で西に向かい6時間ほどですが、標高は1,000メートルにも達しており、すでに乾燥地帯に入っています。あと北へ30キロも行けば、万里の長城があり、その先は内モンゴル自治区です。ここは異郷に接する地でした。

龍門石窟は洛陽(らくよう)の市街地から南に13キロほど行ったところにあります。洛陽は北魏後期の都として、そして唐の都・長安の副都(=第2の都)として栄えました。

洛陽へは北京から特急列車で南下すること8時間ほど。北京―大同間で列車の長旅をした経験から、あれ以上は大変と思い、この時は空路で洛陽に向かいました。1日1便、着けばひなびた田舎の空港でした。

雲岡石窟と龍門石窟は遠く離れているものの、じつは歴史的につながっています。

というのは、南朝と北朝が対峙していた中国・南北朝時代、北朝の北魏が大同(当時は平城)に都を置いていた時期に造営したのが雲岡石窟、のちに洛陽に遷都してから造営したのが龍門石窟なのです。(実際には洛陽に遷都がなされてからも雲岡での石窟造営はつづきました)

雲岡では、南面する崖に総数45の窟がヨコ並びに穿(うが)たれています。造営は5世紀半ばから6世紀前半におよびました。時期的に、インドはアジャンター石窟の後期にほぼ重なります(第5回)。

龍門では東山(とうざん)と西山(せいざん)という二つの岩山が黄河の支流――といっても川幅はとてつもなく広い――を隔てて対峙し、一方の岩山である西山に5世紀末、最初のノミが打ち込まれました。

以後、諸王朝興亡の歴史が繰りかえされますが龍門石窟の造営は持続され、唐の時代になると東山にも開窟がおよびます。そして造営は宋にいたるまで400年あまりの間つづいたのでした。

現存する窟龕(くつがん)はその数2,300を超えますが、比較的大きい(とはいっても雲岡より概して小ぶり)主要な窟は30ほど。

飛びぬけて大きい窟がある一方、蜂の巣のように数多く小さい龕(がん)が岩山に穿たれているのが龍門石窟の特徴です。数としては北魏と唐の時代のものが大半を占めています。

興味深いことに、同じ北魏王朝が造営した窟を見ても、雲岡石窟と龍門石窟では様子が大分異なるのです。そのことを見てみましょう。

 

 

2

〈須弥山世界を体現する石窟〉

雲岡石窟の東の端にある、5世紀後半、それも6世紀に近いころに造営された第1窟は、間口7メートル、奥行9メートルほどの長方形の空間です。その中央に木造を模した塔が彫り出されています。

この塔は、当時の中国に建てられていた木造の塔を再現しています。しかしながら、塔の頂きから、なにやら雲が湧き出るように漏斗状に広がるものがあり、窟の天井に連続しています【写真U-1】

それは宇宙の〈中心〉をなす須弥山(しゅみせん)から上に伸び広がる天界を示しています。仏教でいう天界は、たとえば毘沙門天(びしゃもんてん)とかいうように、「天」がつく名をもつ神々のいる領域で、四天王が睨みを利かせている須弥山の中腹あたりから上がそれにあたります。

須弥山についてはすでに触れましたが(第5回)、それはインドのコスモロジーにおいて世界のはじまりの時にあらわれた原初の山であり、かつ世界の中心をなす聖なる山です。のちに東大寺の大仏を訪れる予定ですが、そこでも須弥山世界が関係してきますので、ここで簡単に触れておきましょう。

ブッダ入滅後のインドに生まれた部派仏教(=小乗仏教)は、世界の中心にある須弥山から漏斗状に(逆ピラミッド状にも表現される)天界が伸びるというコスモロジー(=世界観・宇宙観)を構築しました。これは「須弥山世界」と呼ばれます。

須弥山世界の構造は、大乗仏教そして密教においても継承されました。それがここ雲岡石窟にあらわれているのです。(雲岡石窟は大乗仏教の段階にあります)

塔から湧き出るように漏斗状に広がっているのは天界を示しているのでした。

【写真U-1】塔から上にひろがる天界。塔じたいが須弥山であり、全体として須弥山世界が表現されている。これを地上の建築で実現するのは至難であり、石窟ではじめて可能となった表現といえる/雲岡第1窟

須弥山世界観において、この世界は垂直方向に下から欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三界(さんがい)からなるとされます。須弥山の中腹あたりからはじまる天界は欲界の一部、および色界、無色界からなります。(須弥山世界について詳しくはのちに、東大寺大仏の台座を形成する蓮弁にちなんで説明する予定です)

したがって、塔は須弥山そのものに当たります。形からするとなかなかそうは見えませんが、塔が須弥山なのであり、それが窟空間を貫いて世界の〈中心〉を形成しているのです。インドの塔(=ストゥーパ)とだいぶ形が異なりますが、インドの「須弥山世界」のコスモロジーが中国にしっかり伝わり、それが中国固有のやり方で造形化されたことがわかります。

須弥山としてのこの塔は、世界をつらぬく中心〉軸です。ほとけで埋め尽くされた窟空間の四周の壁に沿って、ひとは塔(=須弥山)のまわりを、つまり須弥山の周囲にひろがる世界の中を回ります。まさに塔(=須弥山)はここでも 《アクシス・ムンディ》 として存在しているのです。(《アクシス・ムンディ》については第3・5・6回

 

〈光を放つハスの花〉

【写真U-2】振りかえって天井を見上げると、明り採りの窓の近くにハスの花が3つ並んでいる/雲岡第1窟

さて、「須弥山世界」を体現している窟空間の入口を入ってすぐ上の天井を見上げますと、天井の幅いっぱいに、直径1.4メートルほどのハスの花が3つ並んで表現されています。はっきり認められるのは真ん中の一つだけで、残りの二つは色が消えていて、やっとわかる程度。真ん中のハスの花も部分的に色が残っているだけですが、赤や緑がもちいられており、かなり脚色されていることがうかがえます【写真U-2】

入口のすぐ上に明り取りの窓が穿たれています。この窓開口のすぐ近くの天井に、ハスの花が3つ並んでいるのです。

窓から入った太陽光がハスの花にあたり、その光が窟空間(この場合は「須弥山世界」になっている)を照らしています。天井のハスは太陽光と同化して光を発するのです。

前回述べましたように、日が高くなると花を開き、傾くとすぼめるハスは、まさに太陽神の住みかと思われていたのでした。太陽ならば世界に一つのはずです。ここに見る3つのハスの花は、太陽そのものというよりは太陽がもたらす光、光明を象徴しているのでしょう。

これをさらに洗練した形で体現している窟があります。たとえば第9窟を見てみましょう。こちらは前室を経て主室にいたるという構成をもち、規模も巨大ですが、第1窟と同じ時期の造営です。

前室と主室を隔てる壁体の上部に扁平なアーチをもつ明り採りの窓があります。くり抜かれることによって壁の厚さが露わになりますが、アーチの下面にハスの花が彫られています。目測ですが、壁の厚さは2メートル、ハスの花の直径は1メートルほどとみられます【写真U-3】

明り採りの窓を光が通る。その光をアーチ下面のハスの花が受け、反射光を主室内に送り込みます。あたかもハスの花が光を放つようであり、それが主室に入るのです。

ハスの花は光となり、光はハスの光となる。このような仕組みは他の窟でも見ることができます(第5窟、第10窟などに顕著)。

【写真U-3】主室から採光窓を見上げると、ゆるいアーチを描くその下面に〈天蓮華〉が表現されている/雲岡第9窟

 

〈天井に咲くのは白蓮か〉

天井に表現されたハスの花を、美術史では〈天蓮華(てんれんげ)〉と呼びます。すでに見ましたように、雲岡第1窟では3つの天蓮華がありました。窟が巨大になりますと、〈天蓮華〉の数も増します。

これまで、明り採りの窓の近くにあるハスの花、そしてアーチ下面にあるハスの花を観察してきましたが、それだけではなく、前室も主室も、天井におびただしい数の〈天蓮華〉が表現されています。光、光明のシンボルであるハスの花が天空を満たしているのです。

さきにもいいましたが、ハスの花が多数あるということは、ハスの花は太陽そのものではなく、太陽が放つ光、光明を意味していると考えられます【写真U-4】【写真U-5】

【写真U-4】主室の格(ごう)天井に表現された多数の〈天蓮華〉。梁の交叉部と格間(ごうま)の中央に位置している。そのまわりを乱舞している天女(=飛天)は〈天蓮華〉から生まれ、世界を祝福している/雲岡第7窟

【写真U-5】採光窓のアーチ下面に表現されている〈天蓮華〉。花托の黄、1重目の花びらの白、そして2重目の黄と、デザイン的に脚色されていて興味深い。これも祝福の表現だろうか/雲岡第10窟

第7窟主室の天井に表現されているハスの花びらには、赤や青が交互に彩色されていた痕跡がうかがえます。だいぶデザイン的に脚色されていたようです【写真U-4】

第10窟の、前室と主室を隔てる壁に開口された、明り採りの窓のアーチ下面を見てみましょう。そこに表現されたハスの花は、中央部をなす花托の部分は剥げ落ちているものの、黄色く塗られていたことが認められます。そして、これを取り囲む1重目の花びらは白く塗られています。ところが、その外側、2重目のハスの花びらが花托と同じ黄色に塗られているのが目を惹きます【写真U-5】

往時、インドにも中国にも黄蓮はなかったといわれています。仏典が漢語に移された際の誤訳とみられますが、「なかった」はずの黄蓮がここに表現されているのでしょうか。

一つの花に、白い花びらと黄色い花びらが二重(ふたえ)で環状にならぶことは実際にはありませんので、こうした色の使い方はデザインからくる脚色かと思われます。おそらくこれは、白蓮を模式化して表しているのでしょう。



***


註記:図版出典および参考文献は、「ハスのコスモロジー(中)」として纏めて次回以降に掲げます。

武澤 秀一(たけざわしゅういち)

1947年群馬県生まれ。建築家/博士(工学・東京大学)。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院を中退し、同大学助手をへて建築家として独立。設計活動の傍ら、東京大学、法政大学などで設計教育指導に当たった。20代、30代はヨーロッパ志向がつよかったが、40代に入りインド行脚をはじめる。50代以降は中国、韓国および日本列島各地のフィールドワークを重ねている。著者に、『マンダラの謎を解く』(講談社現代新書)、『空海 塔のコスモロジー』(春秋社)、『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、『神社霊場 ルーツをめぐる』(光文社新書)、『伊勢神宮の謎を解く——アマテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)などがある。