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世界の宗教

コスモロジーと出会うよろこび【編集部から】

本連載エッセイでは、人類共通の記憶の宝庫ともいうべきコスモロジー(=世界観・宇宙観)の豊かさを武澤秀一先生が探究します。
建築家である先生は、ご著書『空海 塔のコスモロジー』『マンダラの謎を解く』『神社霊場ルーツをめぐる』に見られるように、3次元の存在である建築を歴史・宗教・文化の位相のなかに捉え、塔やマンダラや神社霊場が聖なる力を帯びていく様相を明らかにされてきました。そして今年3月に刊行された新著『伊勢神宮の謎を解く』は、とくに日本の特性を浮かび上がらせていて注目されます。本連載エッセイにあわせて、ぜひごらんください。これからの連載でも、日本列島において育まれてきたわたしたちのこころの特性に、さまざまな場面で気づかせてくれることでしょう。
さあ、コスモロジーに出会う旅に出発することにいたしましょう。わたしたちが無意識の底に置き去りにしてきた大切なものに、今、再び出会うために——。

建築家 武澤秀一の連載エッセイ 時空を超えて コスモロジーと出会う

 

第16回 ハスのコスモロジー(下・その2)


1


〈聖武天皇はなぜ大仏建立を?〉

東大寺の大仏は、空前の巨大さをほこる像を銅で鋳造するという、前例を見ない野心的な試みでありました。それは危険な冒険とすらいえ、失敗したなら、発願した聖武天皇の権威は失墜し、大混乱を招くことは必定でした。

高さ16メートルもの大仏建立に要した銅は490トン、金メッキのための金は430キロ、メッキ工事に使った水銀は2.4トンにもおよんだといいます(『東大寺要録』から略換算)【写真N-1】


【写真N-1】現在の東大寺盧遮那大仏。江戸時代の再建によるもの。像の高さは15メートル弱で、聖武天皇の発願により建立された大仏は今より1メートルあまり高かったと伝えられる/奈良


前回も述べたように、発端となったのは龍門石窟・奉先寺洞のビルシャナ大仏でしたが、それは岩盤から掘り出した摩崖仏です【写真R-3】(第14回に掲載)。巨大さはほぼ同等ですが、造り方がまったく異なります。鋳造には、それだけ複雑で困難な工程をともなうのです。

工法の開発・検討、資材の調達、これを運搬するための道路・河川などの整備など、こなすべき課題が山積していました。大仏建立に直接にかかわった人数だけでも延べ260万人と伝わっています(『東大寺要録』)。まさに国家の命運をかけた一大プロジェクトなのでした。

聖武天皇は、はたして建立できるかどうかすら明確な見通しの立たない大仏を、大きなリスクを押してまでして、なぜ造ろうとしたのでしょうか?

 

〈聖武天皇を襲った未曾有の国難〉

大仏建立にいたるまでの足取りをたどりますと、そこに尋常ならざる天変地異があったことがわかります。まさに3・11以降、今わたしたちが渦中にある大地震・大津波・原発事故という未曽有の事態に匹敵する、国家を揺るがす状況であったのです。

732年に各地が旱魃(かんばつ)におそわれ、733年には飢饉(ききん)がひろがります。734年には大地震が4月、9月と2度にわたって発生しました。
735年も旱魃にあい、凶作でした。この年、疫病(天然痘)が九州からひろまり大流行します。

737年、いったん収まりかけたかに見えた疫病が再び大流行し、死者の数は100万~150万といわれています(吉川真司)。当時の日本の人口が450万人ほどと推定されていますから、まさに国家存亡の危機です。

 

〈天神地祇に祈ったが…〉

この年の5月に出された詔(みことのり。天皇のおことば)にはつぎのようにあります(一部要約)。

4月以来、疫病と旱魃が重なり、田の苗は枯れ果ててしまった。山川の神々に祈祷し、天神地祇(てんじんちぎ)に供物(くもつ)を捧げてまつったが、効験もあらわれない。依然として民は苦しんでいる。

つまり、日本各地の神々に疫病の鎮静化と五穀豊穣を祈願したが、いっこうに効果がないことを嘆いているのです。

影響はもちろん都の朝廷にまでおよび、権勢を誇っていた貴族たちもつぎつぎと斃(たお)れ、同年6月には朝儀も停止される事態となります。人びとの不安も大きく、不穏な風評がひろがり、政局は動揺します。

同年11月には畿内および諸国に使者を派遣し、各地の神社を整備します。在来の神々に供物を捧げてまつったものの効果もあらわれない、それではと、神々のすまいである神社の社殿を整備し、神々の御機嫌を伺ったのでしょう。なんとしてでも、願いを聞いてもらいたいという一心からと思われます。

 

〈ビルシャナ仏に救いをもとめる〉

そして聖武天皇は、『華厳経』の教主であるビルシャナ仏と出会います。それは740年2月のことでした。その時のことを聖武天皇は749年の宣命のなかでつぎのようにふりかえっています(一部要約)。

河内(かわち)国の知識寺(ちしきじ)にいます盧舎那仏を拝み奉った時、われはすぐにもこのような仏を造りたいと思った。

さきにも述べたように、東大寺の大仏は洛陽近郊の龍門石窟・奉先寺洞のビルシャナ大仏に触発されて造られました。龍門石窟・奉先寺洞の大仏は則天武后が寄進したものでしたが、彼女は699年に完成を見た新訳『華厳経』(八十巻本)に序文を寄せています。実際には別の人物に書かせたとしても、そのインパクトは大きいものがあります。

洛陽に入った遣唐使が736年7月に平城京に帰還しています。おそらく奉先寺洞のビルシャナ大仏を実際に見ていると思われます。このことを含め、最新の唐事情が聖武天皇に伝えられたことでしょう。大仏と『華厳経』がセットの関係にあることは十分に認識されていたにちがいありません。

また翌月には、のちに大仏開眼の導師をつとめることになる、当時中国にいたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)をともなって副使が別の船で帰国しました。菩提僊那は『華厳経』の権威でしたので、聖武天皇はこのインド僧から『華厳経』について進講を受けたことでしょう。

 

〈『華厳経』の講説がはじまる〉

聖武天皇のために740年10月から、東大寺の前身である金鍾寺(こんしゅじ)で『華厳経』(六十巻本)の講説がはじまります(『東大寺要録』)。金鍾寺の僧であった良弁(ろうべん)が大安寺に身を置いていた新羅僧・審祥(しんじょう)を招いておこなわれたものです。当時、新羅は唐と頻繁な交流があり、『華厳経』の探究が大変さかんでした。

このように日本の華厳教学は新羅僧からもたらされました。新羅においては『華厳経』と『梵網経』を峻別する意識はなく、したがって日本においても、両者はひとつながりのものとして受け止められていたようです。

『華厳経』の講説は3年間にわたっておこなわれ、六十巻が読了されました。講説には選ばれた学僧たちが参加し、その後も『華厳経』の研究はつづきます。こうして『華厳経』の教義が日本の仏教界に根を下ろしてゆくのでした。

金鍾寺で『華厳経』の講説がはじまったについては、聖武天皇じしんの探究心をみたすだけでなく、『華厳経』を仏教界に浸透させようという天皇の意向がはたらいていたとみられます。実際、その思想的意味をわきまえずに大仏だけを造っても意味がないわけです。

なお金鍾寺は生後間もなくして亡くなった皇太子のために聖武が建てた寺でした。いっぽう、光明皇后は阿倍内親王(のちの孝謙天皇)の無事の成長を祈って福寿寺を建てていました。742年7月、二寺が統合されて大養徳国金光明寺(やまとのくにこんこうみょうじ)となり、全国に先駆けて大養徳国の国分寺となりました。そしてさらには東大寺として名実ともに天下の大寺となってゆきます。

 

 

2

〈大仏建立がはじまる〉

そして743年10月、盧舎那大仏建立の詔が発せられるのでした(一部要約)。

われは菩薩の大願を起こして、盧舎那仏の金銅像一体を造り奉る。

つづいて745年8月、いよいよ盧遮那大仏の建立工事がはじまります。

聖武天皇は御袖に土を入れて持ち運ばれ、御座に土を加えられた。

と『東大寺要録』は伝えています(一部要約)。


747年9月に大仏の鋳造工事がはじまりましたが、これに前後して、東大寺(この時はまだ金光明寺)では写経事業が進められました。それは『華厳経』(六十巻本)を20セット、つまり1,200巻を書き写すという大規模なものでした。実際に使用する目的にくわえ、建立されつつあるビルシャナ大仏に魂を込めようとする狙いがあったのでしょう。

大仏の鋳造工事がはじまりますと、金光明寺にたいし朝廷から、封1,000戸という莫大な財が造寺造仏のためにあたえられました。747年冬、この寺は東大寺と改名され、わが国最大の官寺がここに誕生することになります【写真N-2】


【図N-2】現在の東大寺大仏殿。江戸時代の再建によるもの。正面入口の唐破風(からはふう)が目を惹くが、これは江戸時代のデザイン。また往時は建物正面の幅がもっとあった/奈良


しかし、巨大な仏身を光り輝かせるために必要な金の調達の目途がまだ立っていませんでした。

747年、良弁は琵琶湖湖畔の「石山」の上に小さな如意輪(にょいりん)観音を安置し、東大寺大仏にメッキするために必要な金の産出を祈願しました。如意輪観音は福徳財宝をもたらすとされます。


すると霊験(れいげん)あらたかなことに、本当に陸奥国(むつのくに)、現在の宮城県涌谷(わくや)町から日本で初めて砂金が採集されたとの報が舞い込みました。祈りが見事に成就したのです。

少し横道にそれますが、「石山」の上に安置した如意輪観音のお陰に相違ないと思った良弁は感謝の意をこめて丈六(=1丈6尺=4・8メートル)の、以前の観音とはくらべものにならない大きな如意輪観音像を造り、その胎内に件(くだん)の如意輪観音を納めたといいます。これが観音霊場として知られる名刹・石山寺(いしやまでら)のはじまりです。

話を戻しましょう。
749年4月、姿を現しつつあった大仏に、聖武天皇は金産出の報告をし、感謝を捧げます。その時の宣命はつぎのようです(要旨)。

三宝(=仏法僧。ここでは仏の意)の奴(やっこ)としてお仕え奉る天皇として、盧舎那仏像の御前に申し上げます。

この国に出ることはないと思っていた黄金が出たことは、盧舎那仏のお慈(めぐ)みと祝福であり、これをかしこまって受け賜わります。

さまざまな法(のり)のなかで、国を護るには仏のことばがもっとも勝れていると聞き、盧舎那仏を造り奉ることとしましたが、同時に、天神地祇に祈り、高天原から降臨された皇祖神の時代にはじまる代々の天皇の御霊魂を拝み申し上げます。

人びとは盧舎那仏の完成を危ぶみ、われも黄金の調達を心配していたところ、黄金が出てまいりました。これは仏の霊験の証しであり、かつ天神地祇と天皇の御霊(みたま)がこれを受け入れてくださったことの証しであることを思えば、ただただ嬉しく、有難く、そして畏れいるかぎりであります。

まず注目されるのは、「神にしませば」と謳われたのは天武天皇でしたが(拙著『伊勢神宮の謎を解く』を参照)、その曾孫である聖武天皇は自らを「三宝(=仏)の奴」と称していることです。天武天皇は、『古事記』『日本書紀』の神話によって権威づけられましたが、聖武天皇は仏教に帰依することに自らのアイデンティティをもとめるのです。置かれた状況がそれだけ違ったということでしょうか。

この宣命がおこなわれたのは大仏建立の途中段階ですが、あきらかなのは、国家鎮護においては皇祖神を頂点とする天神地祇よりも盧舎那仏を頂点とする仏のほうが強力であると聞き、そうしてみたところ実際にそのとおりであったと述べていることです。同時に聖武天皇は、天神地祇は仏の活躍を邪魔もせず、受け入れてくれたと安堵しています。

 

 

3

以上を振りかえりますと、未曾有の国難に直面した聖武天皇は事態の打開のために八方手を尽くし、日本古来の神々(=天神地祇)に再三にわたり丁重に、心をこめて祈りを捧げました。ところがその甲斐もなく、ただいたずらに歳月が過ぎるばかりだったのです。

背に腹は代えられず、それではと、もっとも強力な盧遮那仏に救いをもとめたというながれを読みとることができます。まさに救国の決定打となることが期待されたのです。



〈ビルシャナ大仏の守護神〉

大仏本体(=仏身)の鋳造も終わった749年12月、宇佐(うさ)八幡神の平城京入京という一大イベントがありました。はるばる九州から宇佐八幡神が入京し、東大寺大仏を参拝したのです。孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后も行幸してこれを丁重に迎えました。

じつは、さきに引いた、

740年に河内国の知識寺にいます盧舎那仏を拝み奉った時、われはすぐにもこのような仏を造りたいと思った。

という宣命とは、749年に宇佐八幡神が入京したさい、八幡神にむけてなされたものでした。そしてつぎのことばがつづきます。

しかし、なかなか事がうまく運ばなかった。そのように困難な時、宇佐八幡神がつぎのように仰せられた。「神であるわれは天神地祇を率い誘って、必ずや盧舎那仏の造立を成就させよう」と。

つまり、宇佐八幡神こそ、天神地祇を率いて聖武天皇を援け、大仏建立を成功に導いてくれたと感謝しているのです。

 

〈なぜアマテラスではないのか?〉

ここでみなさんは不思議に思いませんか?
「天神地祇を率いて聖武天皇を援け、大仏建立を成功に導いてくれた」神が、なぜ伊勢神宮にまつられているアマテラスではなく、八幡神なのか? と。


八幡神の公式文書における初出は『続日本紀』737年4月の項で、伊勢神宮、大神(おおみわ)神社などと並んでいます(ただし、筑紫の八幡神社として)。八幡神は神仏習合の端緒をなす有力な神として、このころ急速に地位を上昇させていました。新羅にたいする軍事の神であり、また九州南部に勢力を張る隼人にも睨みを利かせる神でもありました【写真N-3】

聖武天皇発願の大仏の守護神が、なぜ伊勢神宮のアマテラスではないのでしょうか?

神仏習合の機運が高まってきたとはいえ、やはり、神々の頂点に立つものとして、仏教とは縁を結ばないという建前があったのでしょう。

しかしながら、空前の巨大さを誇る大仏の建立は、天神地祇にいくら心をこめて祈願しても、いっこうに事態が好転しなかったからこそ、決意されたのではなかったか。
その天神地祇の筆頭に位置しているのがほかならぬ、伊勢神宮にまつられる皇祖神アマテラス…。この現実に聖武天皇が大いに動揺したことは想像に難くありません。

新たに盧遮那大仏を建立する。そしてその守護神として、八幡神を立てる――。それは宗旨替えととらえられかねない事態でした。

そもそも大仏建立は、見かたによっては、アマテラスの権威を揺るがしかねない事業です。伊勢神宮にいますアマテラスのご機嫌を損ねてしまうのではないか…。それが新たな厄災を生みだしはしないか…と心配になってきます。

【写真N-3】大仏建立を強力に守護し宇佐八幡神をまつる宇佐八幡宮。新羅にたいする軍事の神であり、また九州南部に勢力を張る隼人にも睨みを利かせる神でもあった/大分県宇佐市

 

〈アマテラスに断りを入れた?〉

【写真N-4】皇祖神アマテラスをまつる伊勢神宮・内宮。大仏建立にむけて伊勢神宮は微妙な関係にあったと考えられる/三重県伊勢市

この点に関連して、『続日本紀』に興味深い記事が見いだされます(一部要約)。

740年10月~11月 聖武天皇が伊勢国に行幸した。神祇担当官が伊勢神宮に幣帛(へいはく)を奉った。

聖武天皇は10日あまりも伊勢国に逗留します。そもそも天皇自身の伊勢行幸は、わずかに持統天皇の事例があるものの明治天皇までなく、異例です。まして10日以上に及ぶ長い逗留――。 いったい、何のために?

さきに触れたように、この年の2月に聖武天皇は河内の知識寺で盧遮那仏との邂逅をはたし、自分もこのような仏を造りたいとの思いを抱いていました。そして数多の困難を乗り越えて、大仏建立事業が立派に成就するよう、仏法との習合神である八幡神に祈願するのでした。

同年10月の伊勢行幸の時点で、すでに聖武天皇は盧遮那大仏建立の意思を固めていたのではないか。それが宗旨替えととられぬよう、皇祖神アマテラスに許しを乞うたのではなかったか?

この行幸は伊勢神宮に断りを入れ、許可を得るためのものだったと思われるのです【写真N-4】。そこには、神々の筆頭に位置するアマテラスと仏教のあいだの微妙な関係がうかがえるのではないでしょうか。



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                                                                             (つづく)


註記:図版出典および参考文献は、「ハスのコスモロジー(下)」として纏めて次回に掲げます。

武澤 秀一(たけざわしゅういち)

1947年群馬県生まれ。建築家/博士(工学・東京大学)。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院を中退し、同大学助手をへて建築家として独立。設計活動の傍ら、東京大学、法政大学などで設計教育指導に当たった。20代、30代はヨーロッパ志向がつよかったが、40代に入りインド行脚をはじめる。50代以降は中国、韓国および日本列島各地のフィールドワークを重ねている。著者に、『マンダラの謎を解く』(講談社現代新書)、『空海 塔のコスモロジー』(春秋社)、『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、『神社霊場 ルーツをめぐる』(光文社新書)、『伊勢神宮の謎を解く——アマテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)などがある。